ブックタイトル豊田通商70周年史

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概要

豊田通商70周年史

序章時代の状況第1節激変する経済情勢1バブル経済の崩壊と東西冷戦の終結1985(昭和60)年9月のプラザ合意に端を発した円高不況が翌年11月に底入れした後、内需の拡大と活発な設備投資に支えられ、わが国経済は急速に景気を回復した。政府主導の財政出動や超低金利政策もあり、景気は拡大を続け、1990(平成2)年6月にはついに岩戸景気を抜き、1991年2月に至る、実に51カ月にわたる大型景気となった。この間、土地や株価ベルリンの壁崩壊(1989年11月)写真:ロイター/アフロは異常なまでの高騰を続け、実体経済とはかけ離れていたことから、後にバブル景気と呼ばれるようになった。そのバブルが弾けたのが1990年であった。1989年12月29日に3万8,915円の史上最高値をつけた日経平均株価が1990年10月1日に2万円割れを起こし、これを機に株価、地価、景気がともに急落する事態となった。バブルであった分、以降への影響は大きく、長引く不況に悩まされることになった。国際情勢も激変した。第二次世界大戦後に自由主義経済諸国と対峙してきた社会主義経済諸国が自由主義経済を導入し始め、東西冷戦の象徴であったベルリンの壁も1989年に民衆の力によって無効化する事態となった。21世紀に向けた最後の10年は経済、社会とも激動の中で始まった。2日本の金融危機バブル経済の崩壊により、株価、地価の下落が個人から企業に至る資産価値を下落させることになった。とりわけ深刻だったのは巨大な不良債権を抱えた金融機関であり、1995(平成7)年から経営不振に耐え切れなくなった金融機関の経営破綻が続いた。1997年11月の北海道拓殖銀行、山一證券、翌1998年の日本長期信用銀行、日本債券信用銀行の相次ぐ破綻は後の3メガバンク体制につながる銀行再編の引き金となった。旧大蔵省から独立した金融監督庁(現金融庁)が発足したのも1998年だった。株価、地価の下落は1987(昭和62)年に施行された総合保養地整備法、いわゆるリゾート法により全国各地で巨大リゾートの建設を主導していた84