ブックタイトル豊田通商70周年史

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概要

豊田通商70周年史

2トヨモータースの経営危機オートレース界のスターであった川真田和汪が1949(昭和24)年に愛知県刈谷市に設立したトヨモータースは、モーター付き自転車の製造・販売会社であった。当社社長の岡本藤次郎が補助エンジンの取り付けが可能なモーター付き自転車の将来性に着目したことから、同社への支援を決定した。刈谷工機の南工場を借りて生産体制を整備し、当社が総代理店となっトヨモーター1号車完成(1949年)トヨモーターFES125cc発売(1956年)てトヨタ自動車販売の地方ディーラーと代理店契約を結び、さらに有力自転車店をサブ代理店とする販路を確立した。完成した補助エンジンは代理店やサブ代理店で自転車に装着されて販売された。荷台が比較的大きな補助エンジン付き自転車は荷物運搬車として交通の不便な兵庫県淡路島などで人気を博し、1951年に月産300台を記録し、1953年には年間1億8000万円の収益を上げるまでになった。しかし、オートバイが本格的に普及してくると販売が徐々に低迷するようになり、対策が求められるようになった。1956年には重量運搬用の実用車「トヨモーターFES125cc」を発売し、オートバイ生産への転換を図ったが、復活を果たすことはできなかった。軽三輪トラックの台頭やエンジンの欠陥問題、設備投資や内部留保の立ち遅れなども重なり、トヨモータースは経営危機に陥った。3経営危機からの脱却トヨモータースは、この経営危機に対し、銀行主導の再建を進めたものの状況は好転せず、1959(昭和34)年7月、約11億円(現在の価値に換算して100億円以上)の負債を抱えて倒産した。負債の大半は当社が保証したものであり、さらに当社が資金援助をしていた2社の経営が行き詰るという不運も重なり、当社は資本金の7~8倍にもなる負債を抱えることになった。これによりトヨタ自動車工業に支援を要請し、同社から役員を迎えるとともに経営の刷新を図った。再建策として取り組んだのは、トヨタグループへの資材納入を当社経由とすること、さらにトヨタグループで生産するランドクルーザーなどの車両を当社経由で国内外に拡販することなどであった。こうした再建策により当社の経営体質は大きく改善され、取扱製品も繊維関連から金属・機械向けへと徐々にシフトしていき、経営危機から脱出することができ、名実ともにトヨタグループの窓口商社として認められることになった。4八幡製鉄・富士製鉄の指定問屋経済を支える基礎資材である鉄鋼は当時、鉄鋼メーカーの直売を除けば、指定問屋か特約店を経由するのが一般的であった。国内販売の約70%は64