ブックタイトル豊田通商70周年史

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概要

豊田通商70周年史

デー製造機、製氷機なども輸出したほか、台湾茶の入った紅茶の輸入も行った。こうした活発な取引を背景に1953年4月、台北市に台湾連絡所を開設し、1955年8月には出張所に昇格させた。1967年4月に建台豊股?有限公司が当社の総代理店として発足し、紡織機の拡販や原産品の日本向け輸出、三国間貿易を行った。1983年には同社の株式50%を引き受け、当社の現地法人となった。1950年代の台北駐在員事務所香港連絡所バンコク出張所カラチ事務所香港上海系の紡績会社14社を中心に繊維産業が育っていたため、1953(昭和28)年4月に連絡所を開設した。1950年代、豊田自動織機製作所の棉紡機や織機のほか、染色機などを輸出し、また、毛織物や毛糸製品、セーター刺繍加工品の取引も行った。代理店を通してトヨタ車も輸出した。タイ1953(昭和28)年11月にバンコク連絡所を開設し、翌年9月に出張所とした。1955年8月には現地の提携会社ビシダ商会のゼー・スーチン社長と合弁でニッシン(タイランド)エージェンシー社を設立し、トヨタミシンや日紡カタン糸などの輸入、タイ産農産物の輸出を行った。その後、豊田自動織機製作所の繊維機械、製糖工場向けボイラー、三洋電機(当時)の家電製品、鈴木自動車工業の二輪車、トヨタフォークリフトなどを輸入した。1957年1月、スーチン社長と折半出資でトヨダタイランド社(ToyodaThailand Co., Ltd.)を設立し、ニッシン(タイランド)エージェンシー社の業務を受け継いだ。パキスタン1950年代、綿花の一大生産地であったパキスタンには日系の商社を含め数多くの企業が駐在員を送り込んでいた。当時のパキスタンは外貨事情が悪く、輸入にあたってはバーター取引あるいは延べ払い方式が奨励されていた。当社は豊田自動織機製作所の紡織機を延べ払い方式で輸出する一方で綿花を輸入し、その現地拠点として1952(昭和27)年7月、カラチ連絡所を開設し、1954年から出張所として市場確保に努めた。インドネシア元三菱商事の社員で、終戦後に現地で戦犯の弁護人を務めていた松浦政次郎を代理人として1954(昭和29)年9月、ジャカルタに出張所を開設し、魚網や紡織機の輸出を開始した。後にトヨタ車の輸出をはじめ、錫、ゴム、パームオイル、木材などを日本向けに輸出する業務も行った。インドインドへの紡績機の輸出は戦前から行われており、戦後いち早く日本の駐在員を受け入れた国の一つであった。南インドのナガマイ紡績工場向けプラントの輸出が決まったため、1955(昭和30)年5月、ボンベイ(現ムンバイ)、同年11月カルカッタ(現コルカタ)に出張所を開設した。58