ブックタイトル豊田通商70周年史

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概要

豊田通商70周年史

なお、当時の繊維機械以外の輸出品には製氷機や自転車チェーン製造装置、汎用モータ・ディーゼル発電機、マッチ製造機などがあった。3食料品の輸入戦後日本にとって食料品の確保は緊急の課題であったが、許される外貨が少ないこともあり、食料品の輸入は通産省(現経済産業省)による制限を受けていた。設立時、当社に割り当てられていた輸入枠は年4回、1社1品目3,000ドルであり、販売先は決まっていなかったが、紅茶3,000ドルの枠を確保した。最終的に日東農林(現三井農林)に全量引き取ってもらうことで交渉がまとまり、これが当社の食料品輸入の第1号となった。その後、輸入は輸出業者に一定の割合(10%、後に5%)で外貨を割り当てる「優先外貨割り当て方式」に移行し、輸出業者は輸入業者にプレミアム付き(5%~30%)で外貨割り当ての権利を転売するようになった。当社もこの方式で紅茶の輸入を伸ばし、1960年頃には紅茶輸入で国内トップ5に入る実績を上げた。このほか、インポルタドーラハポネサ社(Importadora Japonesa S.A.)からメキシコ産テキーラの輸入も手がけた。4アジアでの現地拠点開設1950年代、輸出入業務が盛んになるにつれ、社員の海外派遣が増える一方、現地での情報収集や拡販を目的とする連絡所や出張所の開設を進め、そのネットワークは10年余りで世界中へと広がっていった。東パキスタン(現バングラデシュ)1951(昭和26)年、当社はパキスタン産業開発公社が中心になって進めていた東パキスタンでのモスリンコットンミル社紡績工場建設の国際入札に豊田自動織機製作所、竹中工務店とともに参加し、落札に成功した。首都ダッカから約60km離れたカリガンジー村で紡機4万4,000錘、織機500台を備えた工場を建設し、ターンキー方式で提供するという大規模プロジェクトであり、これを円滑に進捗させるため1952年6月、ダッカ連絡所を開設した。工場は大幅に遅れたものの1955年に稼働を開始した。1960年10月にダッカ駐在員事務所となった。台湾豊田佐吉翁が上海に設立した豊田紡織廠の関係者で、台湾に渡っていた事業家との人脈を生かし、1951(昭和26)年から豊田自動織機製作所のプラント輸出を開始した。同年度の紡績関連の輸出額は1億8,000万円に上り、他の商材と合わせると2億2,000万円(現在の価値に換算すると数十億円)という当時としては破格の売上げを記録した。その後も六和紡、台南紡、台北紡など台湾のほとんどの紡績会社と取引を行い、紡織機ではほぼ独占状態となった。教育用品や水道パイプ、有刺鉄線、アイスキャンパキスタン紡績機械成約第1号(1953年1月)1950年代のダッカ駐在員沿革編57