ブックタイトル豊田通商70周年史

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概要

豊田通商70周年史

全般における内外実需の不振を挽回する術はなく、遂に2,480万円の損金を計上するに至った」との記述がなされた。この苦境を打開するため、繊維部門の取引を実需一本に絞り、糸売りと委託売買に重点を移すとともに繊維部門を縮小し、臨時管理部を設置して売掛金の回収を図った。さらに営業主要メンバーの配置転換、取引先の厳綿糸相場暴落(1952年)選、経費の削減といった緊急対策を打ち出し、各部・店に採算の見直し、会社との連絡の徹底、惰性による取引の改善などを通達したほか、新規採用も見送った。こうした試練は当社の事業構造が繊維・紡織機に偏っていたことによるとの反省から、営業品目の多様化を進めるきっかけとなった。第2節海外業務の本格化1輸入代行業の開始当社の海外業務は、貿易公団(鉱工業・繊維・食糧・原材料の4公団)の輸入代行業務からスタートした。輸入業務に必要な先方からの輸出引合報告書、輸出許可書、船積申請書、原価計算書などの書類づくりに忙殺され、とりわけ為替レートが1ドル=360円に設定される1949(昭和24)年以前は、商品別に為替レートが異なっていたため、書類は膨大な数に上った。輸出許可証をいかに早く取り付けるかが当時の主な仕事であった。1947年8月、制限付きながら民間貿易が認められ、当社が発足した直後の1948年8月にはバイヤーとの直接契約ができるようになったため、貿易業務に着手した。最初の引き合いはインド、パキスタン、イギリス、香港からの綿紡織機であり、豊田自動織機224台のインドへの輸出代行業務を成功させた。これが当社にとって戦後初の輸出となった。このほか、エジプトからトヨタ自動車工業のSA型小型自動車1台を受注したほか、富士製陶の陶磁器を米国に輸出した。2トヨタミシンの輸出当社が取り扱った製品にはトヨタ自動車工業が生産した洗面器やコップ、食器、弁当箱などのエナメルウエアなどがあったが、それ以外にも愛知工業のトヨタミシンがあった。貿易業を開始した当社はこのトヨタミシンの輸出も手がけ、1950年頃からバンコクへの輸出を行った。同地にあった小野商会(Ono & Co)へR3型と呼ばれるトヨタミシン50台を輸出し、やトヨタミシンがて同社から独立して設立されたビシダ商会がトヨタミシンの総代理店になったことで、輸出量が増えていった。1951(昭和26)年にはメキシコのSナガブチ社向けに20台のトヨタミシンを輸出した。56