ブックタイトル豊田通商70周年史

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概要

豊田通商70周年史

料の安定供給に努めた。7国内営業体制の整備当社が設立された当初、国内の営業体制は本社営業部のほか、大阪支店と東京出張所が開設されていた。大阪支店は豐田産業時代の1946(昭和21)年に出張所から支店へと格上げされ、1947年7月に豐田ビル(大阪市東区南本町3丁目8番地)に移転していた。当社が発足した1948年7月、そのまま支店として30人足らずのメンバーでスタートした。1年後には50人にまで増え、紡織課、絹毛課、綿スフ課、貿易課、総務課の体制としたが、1952年の繊維不況の影響を受け、繊維部門は縮小を余儀なくされた。1945年11月に東海飛行機本社事務所(東京都四谷区四谷三丁目2番地ノ2)に開設された豐田産業東京支店は1947年2月、出張所(東京都千代田区神田鎌倉町)となって存続していたが、当社設立直後の1948年8月に支店に昇格した。当初は総務課、紡織機課、機械雑貨課、受渡課という25人程度の体制であったが、1949年7月、日本橋富沢町の豐田ビル(豊田自動織機ビル)に移転し、毛類課とスフ課、輸入課を新設した。紡織機の輸出のほか、鈴木自動車工業(現スズキ)製のオートバイ「コレダ号」の国内販売も手がけた。その後、従業員も70人となり、同ビルを拠点に輸出・輸入業務の拡大に努めた。1948年11月、浜松市尾張町に浜松出張所を開設し、数人の規模で地元の機屋から綿布、別珍、コールテンなどの買い付けを開始した。1952年5月には浜松市常盤町に移転し、従業員も20人を超えた。1951年8月、福岡市材木町に福岡出張所を開設し、石炭の買い入れを開始した。同年10月には地元機屋への毛糸の売り込みを目的に一宮出張所(国鉄一ノ宮駅〈現JR尾張一宮駅〉ビル2階)、1953年10月には津島出張所(津島市錦町31)をそれぞれ開設した。なお、豐田産業時代にあった京都出張所は1947年1月に閉鎖されていた。大阪支店(1948年)東京支店(1949年)コレダ号サービスステーション(1950年6月)8特需景気後の苦境からの脱却わが国経済を救った1950(昭和25)年から51年前半にかけての特需景気は当社にも大きな恩恵をもたらすことになった。主たる取引先であった繊維業界が特需により潤ったためであり、紡績機などの注文が殺到し、業績も大幅に伸長した。しかし、1951年春に相場が暴落すると、政府の金融引き締めも手伝って繊維業界は戦後初の不況に陥った。当社も繊維製品の滞貨を余儀なくされただけでなく、綿糸布の輸出ではパキスタンの外貨事情の悪化、インドネシアの輸入禁止なども重なり、キャンセルが続出した。1951年度下半期(1951年10月~52年3月)の営業報告書には「繊維織機の船積み風景(名古屋港)沿革編55