ブックタイトル豊田通商70周年史

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概要

豊田通商70周年史

川島紡織や平田紡績、林紡績などへも納入された。好調だった繊維機械も特需景気が終焉すると一転して苦境に陥った。設備の合理化の遅れや繊維製品の乱高下が続いたためで、砂糖や紙とともに綿糸の市況が暴落し、好調だった繊維製品でもオーダーのキャンセルが相次いだ。売掛品の回収不能が続き、繊維部門は縮小を余儀なくされた。一方、1950(昭和25)年11月に綿花部を新設し、東洋棉花(のちのトーメン。2006年に当社と合併)から輸入業務の経験者を受け入れて綿花の輸入を強化し、豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)の得意先である紡績会社への拡販を図った。これが当社における輸入業務の始まりとなったKB型靴下ゴム編機・KA型靴下ゴム編機が、1961年4月の原綿割当制の廃止と輸入の自由化により輸入業者の思惑輸入や安売りが目立つようになったため、1962年に綿花部の人員を削減し、繊維原料課に改組した。5鉄鋼分野と雑貨分野への参入鉄鋼分野への参入も試みた。当時は指定問屋制が敷かれており、大手鉄鋼メーカーへの新規参入はほぼ不可能に近い状態であったため、トヨタ自動車工業と愛知製鋼との交渉により直販分については当社扱いにすることに成功した。1950(昭和25)年に愛知製鋼の指定問屋になることができ、これを機に機械部金物課を設置した。翌年には雑貨金物部金物課として本格的な鉄鋼事業に取り組むことになった。雑貨関連では日本電装(現デンソー)製の電気ストーブ、アイロン、ラジオなどを手がけたほか、学校向けの視聴覚教育用映写機も取り扱った。なお、これらの販売にあたっては大分や宮崎、岡山、三重、新潟、松山にあったトヨタ系自動車販売ディーラーに商事部を設けるよう働きかけ、販繊維輸出借入申請書売ルートの開拓も行った。自動車の販売が伸びていったのに伴い、商事部門は自然消滅していったが、これは独自の販売ネットワークづくりの先駆ともなった。6燃料販売の開始1949(昭和24)年9月、燃料取引規制が解除されるのに合わせ、石炭部を設置し、石炭、コークス、石油など燃料の販売を開始した。三菱鉱業(現三菱マテリアル)や明治鉱業(1969年解散)、雄別炭鉱鉄道(1970年閉山)などと石炭の特約店契約を結び、主にトヨタグループ各社に販売した。当時、石炭炭鉱ではストライキがしばしば発生していたため、これに備え、石炭業務開始と同時に名古屋港内に広川貯炭場を開設した。1951年9月に中川運河南幹線11号地に河口貯炭場、同年10月に中川運河中幹線16号名港海運貯炭場地に篠原貯炭場、1959年9月には中幹線9号地に貯炭場を次々と設置した。また、コークスでは東邦コークス(現東邦液化ガス)、石油では三菱石油(現JXTGエネルギー)と代理店契約を結び、復興と経済成長に欠かせない燃54