ブックタイトル豊田通商70周年史

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概要

豊田通商70周年史

うになっていた。だが、そうした輸出の伸びは輸出先の地域や国との経済摩擦を引き起こすことになった。特に貿易赤字が増加していた米国の日本に対する姿勢は厳しく、繊維や鉄鋼、テレビ、半導体、工作機械、そして自動車で対米輸出規制を求める声が強くなっていた。欧州との貿易摩擦を含め、国際化に伴う経済摩擦への対応が求められるようになった。プラザ合意写真:AP/アフロ3プラザ合意による円高1985(昭和60)年9月、米国ニューヨークのプラザホテルで行われたG5(米国、イギリス、西ドイツ、フランス、日本の5カ国による蔵相・中央銀行総裁会議)により、協調的なドル安が国際的に容認されることになり、特に円高が進んだ。いわゆるプラザ合意だが、発表された声明に「ドル以外の主要通貨のドルに対するある程度の秩序ある上昇が望まれる」とあったことからもわかるように、米国側の大幅な経常黒字を計上し続けていた日本に対するいら立ちは頂点に達していた結果であった。これにより自動車や電機などの輸出企業を中心に業績が悪化し、内需の拡大および輸出先での現地生産が加速されることになった。4安定成長時代における商社戦後復興の時代から高度経済成長を経て、安定成長へ、経済状態が変転するのに合わせ、商社はその機能を変容させてきた。戦後復興の時代には生活物資や産業物資の確保と流通を通じ、人々の生活と産業を支えた。高度成長時代に入ると商社、特に総合商社は資源分野の開発輸入やプラント輸出、川下への事業展開などにより業容の拡大を図った。しかし、ニクソンショックや石油危機をきっかけに低成長、安定成長の時代に足を踏み入れると、一転して業績の低迷に悩まされた。石油危機の際には商社による生活物資の買い占めが狂乱物価の元凶として非難されるなど、「商社、冬の時代」が叫ばれた。その後、商社は円高、原油安、国内需要の落ち込みに苦しみながら、売上高重視から収益重視への転換を図り、海外投資事業や三国間取引の拡大、国際金融への取り組みなどにより、着実に業績を回復させていった。50