ブックタイトル豊田通商70周年史

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概要

豊田通商70周年史

コラム当社の創成期を支えた数多くの事業家たち豊田佐吉や長男の喜一郎、佐吉の娘愛子の夫でトヨタ金融の初代社長となった豊田利三郎のほか、さまざまな事業家が当社の創成期を支えた。金融会社の必要性を喜一郎に訴えた神谷正太郎、神谷と喜一郎を仲介しただけでなくトヨタ金融、豐田産業の時代から当社の経営者に関わり、日新通商初代社長となった岡本藤次郎、さらに佐吉の妻浅子の遠縁にあたり、上海時代の佐吉を盟友として支えた西川秋次も忘れることはできない人物である。西川は佐吉が帰国したのちも現地に残り、戦後も日中友好に尽力したと伝えられ、その顔の広さはのちに台湾に追われることになる国民党政府関係者にまでおよび、西川秋次これが当社が台湾といち早く貿易ができるようになった一因とも言われる。帰国後は日新通商時代の当社に勤め、さらに1950(昭和25)年に当社が増資することになった際、上海の豊田紡織廠が日本に持っていた資産(豊田自動織機製作所の株式など)を精算し、その内の2,100万円を出資、当社の監査役、のちには相談役を務めた。上海豊田紡織廠コラム岡本や石川、神谷など多くの人材を輩出した市立名古屋商業学校当社の創成期を飾った人物を語る上で欠かせないのが市立名古屋商業学校である。1884(明治17)年に愛知県名古屋商業学校として大津橋南西角(現名古屋市中区丸の内)に創立された後、県より名古屋市に移管され、1901年に市立名古屋商業学校となった。日新通商初代社長の岡本藤次郎のほか、のちに当社と合併する加商1907年頃の名古屋商業学校布池町校舎講堂の創業者である石川昇一や神谷正太郎など多くの企業家を輩出した。経済小説の第一人者といわれた城山三郎も卒業生である。同校がすぐれた経済人を数多く送り出せた要因は1897年から同校の校長を務めた市邨芳樹の教育方針によるところが大きいといわれる。・三恩を感謝すべし・商士道を発揮せよ・世界はわが市場なりことに3項目の「世界はわが市場なり」は岡本、石川、神谷に共通しており、これに高い倫理観や感謝の心を加えた資質は名古屋商業学校時代に培われたものであった。市邨は校庭内に池をつくり、その中に世界地図をコンクリートで築いて「世界ヶ池」と命名し、生徒たちに否応なく世界を意識させたと伝えられている。加商社内報に引用された名古屋商業学校教育方針沿革編45