ブックタイトル豊田通商70周年史

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概要

豊田通商70周年史

することになった。代わって小林虎之助、堀田虎之助、岡島貞雄、治良丸友恒が取締役に、西川秋次、石田退三、西村小八郎が監査役に就任し、新しい経営体制が固まった。しかし、1946年12月25日、会社証券保有制限令に基づいて制限会社・従属会社の役員兼任が禁止されたため、豊田喜一郎、豊田佐助、西村小八郎、石田退三が辞任を余儀なくされ、後任の監査役には西川昌雄、鈴木利蔵が選ばれた。わが国全体が復興を模索していた当時、トヨタグループも苦しい状況にあったが、配当収入のあった豐田産業は内部留保が70~80万円(現在の価値に換算して10億円規模)に上っており、それを使って必要な生活物資を買い集めることができた。当時、豐田産業の従業員は131名であり、名古屋本社のほか東京、大阪、京都に出先機関を設けていた。5豐田会館の完成1945(昭和20)年8月27日に開催された戦後第1回の取締役会で決定された案件のなかに、豊田利三郎が1940年に名古屋市から払い下げを受けた名古屋駅前の土地利用に関する問題があった。広さは2,559m2(約774坪)あり、取締役会では「豐田産業の事務所および自動車およびその他の陳列室などを建設のこと」が決定された。豐田会館遠景豐田会館完成当時の建物これを受け、豐田産業は2階建ての建物(1,650m2)の新築を決定した。しかし、戦後の極端な物資不足の影響を受け、建設は難航した。資材は代表取締役だった岡本藤次郎がトヨタ自動車工業と東海飛行機に交渉し入手できたのだが、難題だったのは高騰する工事費・材料費の確保であった。当初160万円程度と見込んでいたのだが、戦後のインフレによりあっという間に膨れ上がり、最終的には500万円の借り入れが必要となった。融資をいくつかの銀行に依頼したのだが、色よい返事がもらえない中、唯一対応してくれたのが三井銀行名古屋支店であった。こうして1946年11月に完成したのが豐田会館であり、同月11日、豐田産業が本社を置いた。のちに建て直され、1955年11月に地上9階、地下2階という規模をもつ豐田ビルへと生まれ変わり、名古屋駅前が有数の繁華街として発展する先駆的役割を担うことになった。戦後復興の真っただ中、豐田産業は次の時代に足を踏み入れようとしていた。豐田ビル44