ブックタイトル豊田通商70周年史

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概要

豊田通商70周年史

材と技術を生かした民需への転換を図り、多くの子会社を設立していった。民需ではトヨタ自動車工業の自転車ポンプや電気コンロ、電気ストーブ、刈谷工機(のちの豊田工機、現ジェイテクト)の手廻し製粉機、刈谷車体(現トヨタ車体)の進駐軍用金属、木工製品などが製造され、子会社では亜鉛採掘の豊栄炭業、木工製品の国華木工、小売業の豊友商事などが設立された。豐田産業はそうした民需品の製造に欠かせない各種原材料の確保および販路の開拓のため、以下の方針を決定し、実施した。一、組織は総務、経理、営業、外国の4部制とし、ほかに東京、大阪、および京都出張所を置く一、営業部は岡本藤次郎常務の担当とし、販売、開発、資材部門も併せて管掌する。販売面強化のため、豊田喜一郎、赤井久義、石田退三、大島理三郎、菅隆俊は販売顧問として参与する一、自動車および紡織機はトヨタ自動車工業、豊田自動織機製作所で市場開拓するが、この両社を含め、豊田製鋼、豊田工機、東海飛行機、刈谷車体の各社の新商品は豐田産業営業部において市場開拓するこれにもとづき豐田産業の定款に、1一般商品の製造販売ならびに輸入、2仲立、代理および問屋業などの項目を追加した。4取締役の刷新と交代1945(昭和20)年11月から46年にかけ、豐田産業は役員の交代を行った。1945年11月30日付で豊田喜一郎が非常勤取締役となり、監査役の神原富保が愛知製鋼(豊田製鋼を改称)に転出するために辞任した。12月10日には取締役の赤井久義が急逝するという事態に見舞われた。1946年5月27日に開催された株主総会では新たな体制を決議し、常務の岡本藤次郎が副社長に就任して実質的な経営責任者となったほか、取締役の豊田平吉、西川秋次、石田退三、監査役の大島理三郎、菅隆俊が退任1946年頃のトヨタ自動車工業刈谷南工場製電気コンロ1948年頃の刈谷工機(現ジェイテクト)製手廻し製粉機豊田製鋼(現愛知製鋼)刈谷工場沿革編43