ブックタイトル豊田通商70周年史

ページ
43/432

このページは 豊田通商70周年史 の電子ブックに掲載されている43ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

豊田通商70周年史

争に敗れた国の現実を目の当たりにして衝撃を受け、しばらく茫然自失の状態に陥ったという。しかし、喜一郎が自動車事業にかけた情熱をてこに素早く立ち直ったように豐田産業もいち早く復興への道を歩み出すことになる。第2節戦後復興への胎動終戦直後の名古屋市・栄付近写真:毎日新聞社/アフロ1戦争終結直後の取締役会戦後の混乱も収まらない1945(昭和20)年8月27日、豐田産業は戦後第1回の取締役会を豊田自動織機製作所の会議室で開催した。出席者と当時の役職は以下であった。社長豊田利三郎(トヨタ自動車工業会長、豊田工機社長、豊田製鋼社長、豊田自動織機製作所社長)副社長豊田喜一郎(東海飛行機社長、トヨタ自動車工業社長、豊田工機副社長、豊田製鋼副社長、豊田自動織機製作所副社長)常務岡本藤次郎(トヨタ自動車工業監査役)取締役豊田平吉(豊田工機監査役)取締役赤井久義(トヨタ自動車工業副社長)取締役石田退三(豊田自動織機製作所専務)監査役豊田佐助(豊田製鋼監査役)監査役大島理三郎(東海飛行機副社長)監査役菅隆俊(豊田工機常務)監査役神原富保トヨタグループ各社の経営を担う人物を役員に迎え、豐田産業をグループ経営の中枢的な存在と位置づけた。議論の対象は豐田産業だけにとどまらずグループ全体にも及び、トヨタ系主要企業が「事業の喪失にともない、会社の解散、分離または合併の必要があるのかどうか」「民需ならびに賠償に関連する産業を通じて事業の継承または新規事業への転換が可能であるかどうか」という点で活発に意見が交わされた。喜一郎は「自動車工業はまず許可されないという予定のもとに、当面は車両の修理、再生に進みつつ、いずれは進出してくるであろうアメリカの2大自動車会社の1社と協定することも考えられるが、これは慎重に考慮すべきである」と述べた。また、グループ全体については「まず、自動車工業の存続は難しく、最悪の場合は、賠償としての設備を中国に移さなければならない。いまのうちに極力、設備・技術などを民間に放出すべきである。紡織機工業・紡績業の復活は大丈夫。豊田工機は現在の戦後第1回の豐田産業の取締役会議事録沿革編41