ブックタイトル豊田通商70周年史

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概要

豊田通商70周年史

第2章戦争終結と復興第1節戦時下での苦闘1空襲による本社焼失1941(昭和16)年に始まった太平洋戦争において日本は、当初こそかくかくたる戦果を上げたものの、徐々に劣勢となり、敗色が濃厚となっていった。1944年からは米国のB29による本土空襲が激しくなり、12月13日には名古屋にも襲来し、三菱重工業発動機製作所などが爆撃された。やがて軍需工場に対する集中爆撃から一般市街地に焼夷弾を落とす焦土作戦へと転換した米国軍は戦争終結まで38回の空襲を行い、これにより名古屋は壊滅状態となった。その最大のものが1945年3月19日の大空襲であった。この空襲により名古屋市中区新栄町にあった豐田産業本社事務所は焼失する。監査役であった竹内賢吉は延焼した自宅の消火活動中に心臓発作で死亡するといった痛恨事にも見舞われた。そのなかにあって岡本藤次郎をはじめとする全社員が必死に重要書類を持ち出し、空襲翌日には焼失を免豐田産業仮事務所(右側の建物)、焦土と化した名古屋市西区御幸本町通(現丸の内)れた西区御幸本町の元本社跡に仮事務所を設け、業務を再開した。その後も何度か空襲に苦しめられたものの、5月29日に第17回定時株主総会を開催し、決算報告書を承認し、年6分配当を決議した。これが戦争終結前最後の決算となった。2空襲被害と戦争終結1945(昭和20)年8月15日、わが国はポツダム宣言を受け入れ、盧溝橋事件から太平洋戦争に至る8年にわたった戦争は終結した。わが国が受けた被害は甚大であり、軍需工場として戦争への協力を余儀なくされたトヨタグループ各社も例外ではなかった。トヨタ自動車工業も8月14日に挙母工場が空襲により被害を受け、工場の約4分の1が破壊された。その復旧作業にとりかかっているなかでの戦争終結であった。何よりも深刻だったのは人々を襲った脱力感と先行きへの不安の大きさであった。2度にわたる欧米視察の経験から日本と欧米との生産力の格差の大きさを知り、敗戦を早い時期から見越していた豊田喜一郎でさえ、戦40