ブックタイトル豊田通商70周年史

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概要

豊田通商70周年史

ついて商工大臣への申告承認を義務づけたものであった。1940年8月、トラックとバスの生産・販売が統制下に置かれ、配給制が始まるとともに自動車の供給は軍事優先となった。さらに同年10月には銀行等資金運用令が公布されて金融統制が一層強まり、融資対象の民需が急速に減少したため、ここに至って月賦販売は事実上消滅することとなった。ここで浮上したのがトヨタ金融を持株会社として機能させる構想であった。3持株会社への変更トヨタ金融は持株会社としての役割を担うため、1940(昭和15)年3月に開催された株主総会で定款の一部変更を決議した。目的の項に「自動車運送業への投資、有価証券の保有並びに他の事業への投資」を加え、さらに「損害生命保険の代理、不動産の所有、利用又は管理、他の会社の設立発起人となること」などを追加した。この「有価証券の保有並びに他の事業への投資」こそ、トヨタ金融が持株会社としての役割を担っていく根拠となったものであった。月賦販売事業から持株会社へと変わり、新たなスタートを切ったトヨタ金融は、1940年8月、豊田製鋼が愛知県知多郡に建設する新工場の建設資1941年6月トヨタ金融、日本徴兵館(名古屋市西区御幸本町通)に移転、その後1942年4月、豐田産業に改称した時点も入居金1,000万円を銀行から借り入れる際、豊田紡織、豊田自動織機とともに連帯保証人に名を連ね、その第一歩を踏み出した。1941年11月には経営陣の刷新を実施し、常務にグループの重鎮であった岡本藤次郎、取締役に豊田平吉、西川秋次、赤井久義、岡部岩太郎らグループ各社の幹部を迎えた。社長の豊田利三郎、取締役の豊田喜一郎に加え、こうした幹部がそろって取締役に就任したことは、トヨタ金融が名実ともにグループにおける持株会社となったことを示していた。第2節豐田産業への改称1自動車配給制の実施トヨタ金融は1942(昭和17)年4月、社名を豐田産業へと変更した。月賦販売事業はそのまま受け継いだものの、前年に勃発していた太平洋戦争により戦時色はさらに強まっており、自動車販売はより一層困難になっていた。それに実質的なとどめを刺したのが、1942年5月に公布された金融事業整備令であり、7月に設立された日本自動車配給株式会社であった。下部組織として各都道府県に地方配給会社が設置され、独立ディーラーは地方ごとに統合されて自動車は完全に配給制となった。月賦金融は姿を消すことになったが、豐田産業の持株総額はトヨタ自動38