ブックタイトル豊田通商70周年史

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概要

豊田通商70周年史

第2節わが国初の月賦販売方式1月賦販売方式の導入豊田喜一郎が白羽の矢を立てたのは当時日本GM社に在籍していた神谷正太郎(のちのトヨタ自動車販売初代社長)であった。神谷は在籍していた三井物産で長く海外勤務を経験しており、その知見を買われて日本GM社に入社し、輸入自動車の販売に携わっていた。入社からわずか5年で日本人最高位となるゾーンマネージャー兼販売広告部長になったという辣腕であった。しかし、1935(昭和10)年8月に「自動車工業確立ニ関スル件」が閣議決定され、日本GM、日本フォードの日本での事業継続が困難となる中、神谷は国産メーカーへの転籍を考えた。そこで三井物産シアトル支店時代の知人で、市立名古屋商業学校(現市立名古屋商業高等学校)の先輩であった岡本藤次郎を訪ね、自動車製造を表明していた豊田自動織機製作所への橋渡しを依頼した。岡本はシアトル時代に東洋棉花(のちのトーメン)の駐在員として活躍し、1932年から豊田紡織の取締役の任にあった。神谷に会った喜一郎は岡本の口添えもあり、「あなたが来てくれるなら販売は一切お任せしてもいい」と伝えたところ、喜一郎の情熱に打たれた神谷は翌日、入社の意思を喜一郎に告げた。自動車販売を一任された神谷は日本GM社の販売組織を踏襲し、1府県を1単位として、メーカーが資本的に関与しない独立型の販売会社を設置する方針を採用した。顧客第一主義を掲げた神谷がもう一つ推し進めたのが日本で初めての月賦販売方式であった。日本に進出していた日本GM社、日本フォード社はそれぞれ金融会社を設立し、月賦販売を実施しており、1935年ごろには自動車販売の80%近くが月賦で販売されるようになっていた。トヨタ車の販売でも月賦販売の必要性を痛感していた神谷は、「消費者金融の未発達な国では、自ら金融会社を設立すべきである」との考えから、日本初の月賦販売を目的とした金融会社の設立を目ざすことになる。トヨタ自動車工業が設立されるほぼ1年前であった。36