ブックタイトル豊田通商70周年史

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概要

豊田通商70周年史

まで脈々と受け継がれ、グループ発展の原動力となった。また、織機の発明やモノづくりで佐吉が強調したのは、「とにかくやってみろ」の姿勢であった。さまざまな苦闘の経験の中から生まれた佐吉のモノづくりの姿勢は、長男の喜一郎に実地第一主義として受け継がれ、今日では現地・現物の大切さとしてトヨタグループのモノづくりに定着している。2豊田喜一郎の自動車製造への決断わが国で自動車の効用が広く知られるようになるのは1923(大正12)年9月に発生した関東大震災以後のことである。震災後の復興活動でフォードやGMなどの米国車が活躍したことで「自動車は便利なもの」との認識が広がり、自動車の需要が拡大した。市場を支配していたのは、完成車の組立工場を日本に建設し、乗用車とトラックの製造を開始したフォードとGMであり、国産車ではなかった。国産化に挑んだ企業が皆無ではなかったが、ほとんどが挫折し、国内市場は米国製自動車の半ば独占状態にあった。こうした状況に危機感を抱いた一人が豊田喜一郎であった。欧米への視察経験のあった喜一郎は欧米社会で自動車が広く普及し、大衆の足となっている光景を目の当たりにしており、自動車製造に挑戦する夢を胸に描いていた。本業の織機や紡績機械の将来性について楽観できなくなっていた喜一郎は、1933(昭和8)年9月、豊田自動織機製作所内に自動車製作部門を設置し、念願だった自動車の試作にとりかかることになる。豊田喜一郎A1型乗用車3課題となった販売自動車製造への挑戦は十分な経験や設備、技術がないことから試行錯誤の連続であったが、約2年後の1935(昭和10)年、念願だった乗用車の試作に成功した。一方で政府から国策上の理由によりトラック、バスを製造してほしいとの要請が寄せられたため、乗用車と併せてトラックの製造も行うこととなった。喜一郎は自動車専門の工場建設を決断し、1936年に刈谷工場を建設、さらにのちに挙母工場となる工場用地の選定にも着手した。製造されたトラックは当初こそ品質に問題を抱えていたが、徐々に改良が進んでいった。しかし、その一方でスタートしたばかりの自動車事業は大きな弱点を抱えていた。自動車販売の経験がなく、トラックをどう販売していくのかわからなかったことである。喜一郎の前に販売組織と販売方法の確立が大きな課題として立ちはだかることになった。日の出モータース沿革編35