ブックタイトル豊田通商70周年史

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概要

豊田通商70周年史

さらなる一体化を目指して当社と加商は合併することになった。2000年4月3日に行われた合併式典で挨拶に立った取締役会長の武山栄造は、今回の合併が単に規模の追求を目指したものではないことを強調した上で、「互いに強みである事業領域を掛け合わせ、強い分野、成長性のある分野を徹底的に伸ばし、専門性を高め、お客様に喜ばれる機能を強化していくことで、この大競争時代の中で生き残り、勝ち続けていくことを目指したもの」であるとした。そして、今後の課題としてシナジーの極大化を図り、単なる足し算でなく、相乗効果的に当社が発展していくための起爆剤としていくことが大切であるとした。加商が77年に及ぶ歴史の中で培ってきたハングリー精神、自由闊達な企業風土を新生豊田通商に継承していくことも期待された。第2節トーメンとの合併1トーメンの歴史トーメンの歴史は1920(大正9)年にまでさかのぼる。三井物産棉花部の業務を継承し、東洋棉花として大阪市で設立されたのが発端である。そして、この三井物産棉花部と浅からぬ関係にあったのが、トヨタグループの祖である豊田佐吉が1918年に設立した豊田紡織であった。もともと佐吉は三井物産と関係が深く、経営に当たっては同社大阪支店長の藤野亀之助の助言や進言を受け、また、豊田紡織が生産した紡織製品の多くが同社の棉花部を通して東南アジアやインドなどへ輸出され、豊田紡織が設置した紡績機械もほとんどが同社を通じて入手されたものだった。人脈でも強いつながりがあった。佐吉の娘でトヨタ自動車の創業者豊田喜一郎の妹である愛子と結婚し、豊田紡織の常務取締役となったのは豊田利三郎(旧姓児玉)だが、東洋棉花の初代専務取締役となった人物こそ、利三郎の実兄で三井物産大阪支店棉花部長を務めていた児玉一造であった。児玉家は豊田家との関係が深く、豊田紡織の主要株主に名を連ねていたほか、児玉一造は喜一郎とその妻となった二十子(はたこ)の仲人も務めている。児玉一造に率いられ、豊田紡織との取引関係も引き継ぐかたちでスタートした東洋棉花は戦後、機械や金属、食料などの取り扱いを開始して多角化の道を歩み、海外事業も拡大させた。1970(昭和45)年にはトーメンへと改称し、その後、化学品、食料、繊維、エレクトロニクス、機械・エネルギーの五つのセグメントを擁し、北米や欧州、アジア、オセアニアなどで事業を展開する総合商社としての体制を構築していった。しかし、1990年以降、バブル経済の終焉を受けリゾートや宅地開発などが不良資産化するとともに、金融業界の再編もあって、商社再編の大きなうねりに飲み込まれていった。児玉一造トーメン大阪本店ビル沿革編121